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2011年3月11日

SCS特殊清掃の岡本です。

毎年、冬から春に移り変わるこのときに決して忘れる事の出来ない震災の記憶がありますね。
私が18歳、高校の卒業前には阪神大震災が起き、私は無事でしたが親戚は被災者となりました。
そして5年前に東日本大震災が起きました。

2011年3月11日に私は長距離トラックドライバーとして仕事していました。
私は当時あの現地に足を踏み入れ、この目で経験して、その後トラックを降りて今の仕事をはじめるきっかけが東北の大震災です。

あの日、
ちょうど昼過ぎに神戸の港で静岡県牧之原市行きの荷物を積んでいる時に揺れを感じたのが始まりでした。
まさかその時には大災害になるなんて思いも寄らなかったのですが、結局はその後、東北には甚大なる津波被害、
そして静岡県沿岸も津波警報が発令中で、翌日の荷卸し場である牧之原市の現地も沿岸2キロ以内に位置するので、運搬が中止になりました。
荷物をもう一度倉庫に戻し空車の状態で帰社してテレビをつけると私も体験した阪神大震災とは違う、
津波の映像を見る事になり、同じトラックが流されていく映像をみて、初めて今回の震災の怖さを覚えました。
他人といえど私も停めた事のあるあの岸壁沿いの大型トラックが流れて行ってるのです。
しかも大型トラックがいとも簡単に流され海へ飲まれているのです。中に人が居るかもしれません。
いや、いる可能性大です。あの岸壁に停めるときはキャビンで寝ている可能性が高いです。あれが自分だと思うと。震えました。

次の日からもテレビによる被害状況、中には孤立している町もあるとのこと。そんなときに仕事依頼がはいりました。
荷主が大阪知事(当時橋下さん)の仕事を私が任命されました。なぜ私が選ばれたのかはわからないのですが、
当時34歳の私は一番若いので、いってきます!!という二つ返事は当たり前。
しかし初めての東北地方へいくのが震災中で状況がわからない被災地へ行くことに正直不安を覚えていましたがなぜかいくしかないと変な私。

当時の私は、月に3日ほど、大阪の家に帰ってきて夜は街で飲み散らかして休み明けにまた長距離にいくという
なんとも好き勝手なおひとりさまを満喫しており、本当に心が病んでいた私は人と関わるのにトラウマを覚えていたので
気楽に一人旅を楽しんで仕事が遊びのようなあと先の事なども考えるはずもなく、ただ、惰性で生きておりました。

そんな私に、妙な変な気持ちが生まれ、なぜか力になりたいと思った被災地への救援物資の運搬が始まりました。
震災の次の日12日の18時ごろに荷物(災害用チキンラーメン)の積み込みが終わり、トラックの3軸目のみスタッドレスタイヤを装着(あきらかに何かがおかしいのですがここは割愛)大阪から高速で名神、北陸道から新潟中央より磐越道に移る手前、三条燕インターで一旦高速を降りて給油所へ。
これは理由があり、被災地では燃料を入れる事が出来ないかもしれないとの噂がトラックドライバーでは広がっていた為です。
大型トラックの燃料タンクは600ℓ、だいたい満タンで1500キロ前後だったと思う。大阪から岩手県宮古市まで1100キロなので
余裕をもって600キロくらいの新潟三条燕で給油するのが無難だと判断したのです。
無事に給油を済ませて高速に戻り磐越道を目指そうとすると急激な眠気が襲い、路肩に停め2時間程仮眠。朝6時頃目が覚め
磐越道に入るところで警察の検問がありました。そこで初めて(内閣府発行)通行許可証を手にいれました。
ビックリマンシールキラキラ以上の素晴らしいプレートです。
これがあると震災復興に関わる車両は高速道路が全部無料通行可能になるとんでもない期間限定のシロモノだったのですが。
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途中磐越道から東北道への分岐、郡山ジャンクションを超えてから東北道は地震による地盤のずれで道路上にヒビや段差が沢山出来ていて
トラックにも相当の衝撃が走りました。
道路上の段差と大雪でスピードを出すことが危険なので60キロ走行で東北道を北上しようやく盛岡南インターに到着した頃が
すでにお昼13時過ぎだったのを覚えています。
救援物資は岩手県岩泉町→普代村→宮古市と順番に卸しに行く予定でしたが実はこの時には、大寒波が東北を襲っていたのです。
大寒波の影響は地吹雪警報と共に路面は凍結し、雪も積もっている状態でした。
ご存知の方もおられると思いますが、盛岡南から岩泉町→普代村→宮古市へ行くためには国道455号を90キロ近く山道と
険しい峠を走っていかなければなりません。そして峠の入り口には当然検問があり、一般車両通行止めの看板。
私のような【内閣府発行】通行証を持っている車のみ可能。
しかし前記していた3軸目のみスタッドレスタイヤを履きその上からタイヤチェーンを巻いただけの装備なので検問で止められます。
いったらだめだと。
しかし、わたしは【いくしかないねん】と警察に怒鳴って無理やりゆっくり登っていきました。
なぜか警察も停めもしないのでそのまま進行。数キロ行くまでには道路はとっくに真っ白
そんな不十分な装備ではゆっくり走行するしかなく、途中自衛隊のトラックにも抜かせてあげるくらい、危険な走行だったのです。
岩泉町役場に到着する頃にはもう夕方になっていました。そこで荷物を卸して次は普代村に着いた時には
もう日が落ち真っ暗になっていまして、荷卸し後にはフロントガラスが凍り付き、お湯も無く溶かすことが出来ずに爪で掻き削って視界を確保。
前途の村では直接的な人的被害は最小であったのですが避難している人はたくさんいました。
でも身内の安否がわからなくて不安な気持ちで皆さま過ごされていたのだと思います。
凄くチキンラーメンを届けた事に感謝してくれて、私は【一緒にがんばりましょう】としか言葉をかけることができませんでした。

そして次の宮古市に近づき街が見えた瞬間、
体中が震え上がりました。テレビ、それ以上の360度の光景が広がっていました。

国道45号までどうやっていけばいいですか?と普代村で訪ねてみたけれど【道は無くなった】と聞いており本当だとすぐに実感しました。
本当に道がない。国道道路真ん中にひしめき合う家、家、家、まだ水も引き切っておらず、救助もまだできていない事がわかる家だらけ。
びっくりして慌ててトラックから降りる。と地面が凍り付いていてコケる。しかしコケた痛さや寒さよりもありえない光景に震え上がる。
勝手に出る涙が止まらない。馬鹿だから写メールを取ろうと試みたが手振れ防止以上の震え上がりで作動せず。

中型船がビルの上に乗っかってる光景。テレビで見た。でも実物でみたらテレビとは比べ物にならない。なんてことだ。これが津波。
これが現実。本当に震えがとまりませんでした。睡眠時間すごく少ししか取っていないけど眠気なんて起きる気がしません。
その場にいても何もする事が出来ない自分にわかってはいるけどしばらく立ち尽くしていたのを覚えています。

しかしすでに時間は日にちが変わるくらいまでになっていたので、救援物資を運ぶ体育館を探しようやく着いた。
宮古市のとある体育館には沢山の人が待ち望んでいたかのように受け取ってくれる。
というよりも荷卸しをみんなで手伝ってもらいました。
まだ自分の家族たちが見つかっていない人もたくさんいました。
しかし若い子も年配者もその時からお互いを励ましあっているのがすごく伝わり、
人間の素敵な本質を見る事ができた。

携帯電話が全く使えず衛星電話の列に並んでいると、まわりは皆地元の人たち。
泣きながら叫んでいる人、泣きながら安否確認が取れて喜んでいる人。
その列で会社へ配達完了報告の為に連絡をとるのも申し訳なく、途中で列を離れ、
電波の届くどこかを探すために盛岡まで戻ろうとしたときに
自衛隊の方から帰れないぞ。明日の朝までまったほうがいいと言われました。
というのも、雪が圧雪しており(薄く硬い氷が張っている状態)地元の慣れたドライバーもスタッドレスタイヤの
上からチェーンを巻いていたが切れたとの事。

タイヤチェーンはあくまでも雪の上で使うものであり、圧雪下のアスファルトに触れるのでどうしても切れやすいのです。
かといって、被災者の方の寝床が一つ減らすわけにもいかないので行けるとこまでいこうときめて、出発したのです。
いわんこっちゃない途中でチェーン切れました。もう走行不可能。
宮古市から50キロくらい進んだところで雪と坂の傾斜が急なので道の駅を発見して夜を過ごしました。
マイナス15度以上の表示看板を見ながら仮眠をとり翌朝には天気になっていて道路上の雪が少しましになったので出発。
そしてようやく盛岡まで出てくることができ、携帯電話で会社に完了報告をいれるが、会社はなんや生きとったのか、
行方不明になったと盛り上がっていたと一言。そして休む間も無く帰りはその日中に群馬県伊勢崎市まで積み込みに向かい
2日後に関西へ一旦帰阪しました。

この日が初めて被災地へ救援物資を持っていくことになったのですが、それから何度も岩手、宮城、福島へ救援物資を持っていくことができ、
現地で出会った深い悲しみの被災者の方、納棺師やエンバーマー、歯科技工士、自衛隊や災害ボランティアの方の使命感に心打たれました。
そして私はトラックを降りて、今の志事、特殊清掃という仕事に出逢いました。

私にとっての震災は人の命がたくさん奪われた悲しさと私の生き方を変えてくれるきっかけになってしまったわけです。

災害復旧支援には私が出来る事をこれからもしていきたいと思います。

今日の日を風化させることなく、命を大事に。
また災害時には危機管理が第一、それぞれが声を掛け合う事で沢山の人の命が助かる事が多いです。

哀しいことに、今の日本は都会であればあるほど、近所付き合いが無い。
隣のひとの名前はおろか、顔もわからない、住んでいたの?であるとか、
そうではなく周りが昔の団地の隣近所のように助けあう事が必要であると思います。
私たちが産まれてから起きた大きな自然災害、阪神大震災及び東日本大震災で沢山の命が奪われました。
それを教訓に人間は成長していかねばなりません。一番大切な事は相手を思いやる気持ち。
持ち続けていきたいです。

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