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スタッフブログ|独居死・孤立死・自殺のSCS特殊清掃・ケアサービス

和歌山県沖で海洋散骨を行いました。

先日、和歌山沖で海洋散骨を行いました。

ご依頼主から急なご連絡が入り、
火葬の前に、契約をしたいとのご依頼でした。
そして、気が早いようですが、ご自身の散骨も一緒に契約したい、
というお話でした。

散骨は、徐々に認知されてきていますが、
まだまだ、詳細については知られていないと感じることが多くあります。
樹木葬や海洋散骨など、散骨の種類や、
粉骨が必要であること、散骨が可能な場所についてなど
ご遺族や時にはご本人様に、丁寧に説明したうえで契約を行います。
お墓を維持することが難しくなってきた昨今、
散骨を選択しようとする人は増えてきましたが、
いざ、ご自身や身近なところで行うと知ると驚く方がいるのも
現場で感じる感想です。

ご本人とその子どもさんたちは納得の上でも、
親族が反対する、抵抗を感じる、というケースもあるようです。

今回のご依頼は、その点スムーズにご理解していただくことが出来ました。
ただし、驚いたことに、せっかく散骨するなら、ということで
大変大きな骨壺にお骨を拾われたようで
関西では通常5寸の骨壺のところ1尺という大変大きな骨壺を持ち込まれました。
これには、散骨を担当して下さる船の船長さんも大変驚いていて
通常の4人分くらいですね、と微笑んでいました。

そして、冬空の下、大変良い天気に恵まれ、
和歌山沖の美しい海にお見送りすることが出来ました。

散骨のお問い合わせも、ビー・アライブまでお申し付けください。

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2022年も終盤

いよいよ2022年も終わりですね。
私自身、今年9月から特殊清掃という仕事を始めて、
多くの現場を経験しました。

同じ現場に1週間程度通うことも多く、
亡くなった方が生きた場所や時間を少しだけ共有したような、
不思議な気持ちにもなりました。

そして、当たり前のことですが、
人生は人それぞれだと、強烈に感じました。
一人で暮らすことになった理由も、
子どもが手を離れたことだったり、
配偶者に先立たれたことだったり、
自ら望んでそうしたケースもあるでしょうし、
不本意ながら一人で暮らしていた方もいたかもしれません。

特に印象的だったのは、
まだまだ元気な年齢だったからこそ、
突然、命を失い、
心配して定期的に連絡をくれる人がおらず、
長い時間亡くなったまま放置されてしまったケースです。

部屋は人を招くような状況ではなく、
生活感がしっかり残っている中で
特殊清掃を行い、部屋を片付けていくことは
その方の生きた痕跡を消していくようで、少し心が痛みます。
それでも、写真などでその方が楽しく暮らしていた様子をうかがい知れると、
少し安心します。

私たちの仕事は、できればない方がいい仕事ですが、
ゼロになることは無く、誰かがしなければいけない仕事なのだと、
実際に仕事を始めて痛感しています。

依頼していただいた方はもちろん、
亡くなった方にも、思いが届くような仕事をしていけたらと考えています。
本年はありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。

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大量のペットボトル爆弾(し尿)の処理は大変です。

先日、またもやゴミ屋敷の清掃を行いました。
今回は、1Rマンション。
部屋の主は亡くなったわけではなく、
訳あって部屋をそのままにして去ってしまったようです。

一人暮らし用の部屋ですので、
ゴミ屋敷とは言っても、その物量はそれほどでもないのでは?
と、思われるかもしれません。
しかし、部屋にゴミを溜めこんでしまう人は、
想像を超えた溜めこみ方をするのです。
低い所で腰くらい、
高い所では肩の高さまでゴミが積み上げられていました。
さらに、ゴミの間には無数のペットボトルがあります。
これが今回のテーマ、ペットボトル爆弾です。
ゴミ屋敷は、ゴミの溜めこみが進んでいくにつれて、
お風呂やキッチン、そしてトイレといった設備が使用不能となり、
居住スペースすらなくなっていきます。
その際、用を出す手段として、ペットボトルに小便をする、
という行動がよく見られます。
ペットボトルに入れられ時間のたった尿は、
発酵が進んでいるのか、
栓を開けた瞬間にガスと共に噴き出すようなものもあります。
これが「ペットボトル爆弾」と呼ばれる所以です。
臭いも強烈で、汚いお話で恐縮ですが、
たくあんのにおいを数百倍に濃縮したような刺激臭です。
何百本にも渡る、このペットボトル爆弾、
処理をする際は、防護服を着て、
N95など、高機能のマスクをつけて行います
(作業服に飛び散りますし、臭いも長時間かいでいられないほど
強烈なのです)

まずはゴミ屋敷のトイレ周辺のゴミを撤去し、
スペースができたら、ゴミの中からペットボトルを仕分け、
トイレ周辺に集めます。
そして、ひたすら、ペットボトル爆弾を開栓し、
トイレに流していきます。
その途方もない数に、心が折れそうになりますが、
この部屋の住人が、どういった経緯でこうした生活に陥り、
ペットボトルに用を足す日々を続けたのか、
ついつい思いを巡らせてしまいます。

なんとか、ペットボトル爆弾を処理し終えて、
帰り支度をしていると、他のスタッフから、
「臭いで」と指摘されました。
防護服を着ていたため、服に臭いは次いでいないはずなのですが、
噴き出したガスを浴び続けていたため、
身体に染みついていたようです。
今回の仕事、一番心が折れたのはこの瞬間でした。
トラックの窓を半分開け、帰路につくのでした。

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普通に生活していれば無いゴミ屋敷と汚トイレ

先日、入社して初めて、「汚トイレ」の清掃をしました。

「汚トイレ」とは何か?
ゴミ屋敷と呼ばれるお宅の多くは、リビングやキッチン、風呂、トイレにいたるまで
ゴミであふれかえり、それぞれの部屋の役割分担がなくなる状態になっています。

浴槽もゴミが占拠して入浴することはできませんし、
便器にもゴミがあふれかえり、用を足すことができません。
そうなるとどうなるのか?
無理やり用を足そうとすると、便は便器をはみ出て、
トイレの床に積もっていきます。
ここまで読んであまり想像したくない状況が浮かんだかと思います。
「汚トイレ」は、便器はゴミであふれかえり、さらに尿石や便がこびりつき
その周りにも便やゴミの混ざった物が積み重なった状態です。

これをどうやって清掃するのか?
あまり気の進む作業ではありませんが、
ご依頼に応えるためにはそうも言っていられません。
まずは昔ながらの手法ですが、酸性のトイレ用洗剤をたっぷりとかけ
その上からキッチンペーパーなどで湿布し、時間を置きます。
その間に、上部のタンク部分などを洗剤で丹念に磨いていきます。
垂れた洗剤でふやけた床の便がふやけてくれば、
こそげ取ることもできるようになります。
(汚い話で申し訳ありません)

そして、満を持して便器をこすってみると…
ペロンとあの頑固そうな尿石や便のこびりつきが、気持ちよく取れていきます。
弊社ではサンポールを使用していますが、
昔からある洗剤の偉大さをここで改めて感じます。
とはいえ、残ったこびりつきは、
粗めのスポンジでこそぎ取っていく必要があります。

床のこびりつきも、洗剤とスチーマーを駆使して、
ふやけさせこそげ取り、さらに残った汚れをぞうきんで
何度も何度も磨き上げます。

狭いトイレ(しかもかなり汚れている)の中で
こうした作業を繰り返すことは、なかなかしんどい作業ですが、
作業を終えて、ピカピカになったトイレを見る時の喜びは、
なかなかのものです。

このように、普通に暮らしているとなかなか遭遇しない状況ですが、
この仕事をしていると、不思議と同じような状況に出会います。
家を通常ではありえない状況に汚してしまう、
そして、それには一定の型がある。
ある状況に置かれると、
人は「汚トイレ」を生み出す精神状態になってしまうのかもしれない。
少し怖い事ですが、こういった現実と向き合いながら、
できれば「汚トイレ」を生み出す人が少ない世の中になってほしいと願っています。

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ゴミ屋敷の特掃

先日、とある閑静な住宅街の特掃の依頼が舞い込みました。
依頼者は、亡くなった方の親族で、亡くなったのはその方々のおじにあたります。

現場に着くと、その一軒家は外観からして異様な雰囲気を漂わせていました。
庭の木々は伸び放題で、建物の外観にも大きな損傷があり、
一歩間違えば崩れてしまいそうです。
聞けば、もともと依頼者のおばあさんとその息子であるおじさんが二人で暮らしていたそうで、
15年以上前におばあさんが亡くなって以来、
親族も家には入ったことがなかったそうです。

まずは庭の木々をかき分け建物へと近づきます。
さっそく、大量の蚊に襲われ、さらに油断すると伸び放題の枝に頭をぶつけます。
やっとたどり着いた玄関は、どういうわけか開きません。
縁側の雨戸を開くと、その理由が分かりました。
どうやら、家全体をひざくらいの高さまでゴミが覆っているのです。
おじさんは、おばあさんが亡くなった後、
いわゆるセルフネグレクトの状態になったようで、
新聞、雑誌、コンビニで買ったお弁当ガラ、ペットボトル、などのゴミを溜めこみ、
最後には、そのゴミに埋もれるように亡くなっていました。
大量のゴミの中に、黒っぽく変色している部分があり、
おじさんが亡くなった場所だと分かりました。
わたしは、手を合わせ、依頼主のところへと戻りました。

ご遺体の臭い自体は強くありませんが、亡くなったあと腐敗している状況があり、
衛生面の問題があるので、その部分のゴミの撤去と消毒の必要があることをお伝えしました。
依頼主のご意向で、ひとまず亡くなった部屋とその隣のおばあさんの部屋のゴミの撤去を行うことになりました。
2部屋分とはいえ、ゴミは2トントラック3杯分にはなろうかという量です。

作業を始めると、近隣の方からよく声をかけられました。
外観が大きく損傷したこのお宅、数年前の台風で一部が崩れ、そのままになっていたようで、
近隣の人も気になっていたようでした。

まずは、亡くなれた部屋から清掃を始めます。ゴミに埋もれて亡くなっていたため、
汚染範囲がわかりません。そのため、まずは、亡くなられた場所から離れた部分のゴミを回収して、
汚染された部分へと向かっていき、汚染範囲を確認します。
床が見える程度まで片付けていくと、2008年の新聞が見つかり、
この時期からセルフネグレクトが始まったことがわかりました。
そしていよいよ汚染部分の清掃に入ります。汚染部分は、二人がかりで作業します。
汚染範囲を広げてしまったり、汚染部分を必要以上にふれないように注意が必要だからです。

ゴミ屋敷の撤去、そのゴミの量に圧倒されるだけでなく、体力にもなかなか大変です。
特におばあさんの部屋はひざの高さどころか、肩ほどの高さがあり、
下の方のゴミを引っ張り出そうとしても、上からの圧がかかっていて、まったく出てこないのです。
ゴミは見えているのに、なかなか回収できず、少しずつ少しずつ崩していくしかなく、根気のいる作業です。

2日間、のべ6人がかりで2部屋の清掃を終えることが出来ました。
今後、相続等の話が決まれば、家を解体する予定で、
またゴミの撤去を行う必要が出てきそうです。
(内部に残置物があると家の解体は出来ないのです)
このあたり、詳しく知りたい方はぜひ、ビーアライブまでご連絡ください。

エレベーターなし物件での暮らしと生前整理

9月に入社した野々山です。

特殊清掃の世界に飛び込み、驚いたことの一つが、
エレベーターのない5階以上の建物で暮らす
ご高齢の方の案件の多さです。
特殊清掃を行い荷物の運び出しをする我々にとっても、
骨の折れる作業になりますが、
自室まで階段で重い荷物を運び、日々暮らしていた故人を思うと、
日本の高齢社会と住宅事情について考えざるを得ません。

おまけに電車の最寄駅からも遠く、
近隣にお店も少ないエリアも珍しくなく、
時折、「都会の買い物難民」といった形で報道でも取り上げられることがありますが、
深刻な社会問題だと感じます。

また、配偶者を亡くし、その荷物を整理できないまま、
2人分の荷物(時にはご子息の思い出の品も)に囲まれて、
亡くなられている方も多くいらっしゃるようです。

先にも述べたように、エレベーターのない物件から荷物を運び出すことは
骨の折れる作業ですし、
家族の物とはいえ、自分のもの以外の荷物整理は、神経を使う作業です。

整理できないままお亡くなりになった場合、
ほとんど物はご遺族に形見分けされることもなく、処分されてしまいます。
もしも、ご家族に持っていてほしいものがあれば、
生前にきちんと整理しておくことが最善だと、日々仕事をしながら感じております。

生前の荷物整理も弊社で承ることが可能ですので、ぜひともご相談下さい。

入社して初めての特殊清掃の作業に行きました。

9月に入社した野々山です。

先日、先輩の監督の元、初めて特殊清掃を任せてもらい、
現場を経験しました。

内容は、大阪市内のマンションの一室で亡くなった方の特殊清掃です。
現場に到着するとご遺族と合流し、状況を確認。
キッチンと居間の間に倒れ、
そこをまたぐように亡くなっていたことが分かりました。

ご遺族に作業時間の目安を伝え、さっそく清掃に取り掛かります。
初めて着る防護服、近所に臭いが漏れるのを防ぐため、
エアコンは使わず、部屋は閉め切ったままで作業を始めます。
最近は涼しくなってきたとはいえ、通気性のない防護服の中は、
あっという間に汗まみれになり、
メガネはズレ、汗で前がよく見えなくなってきます。
(洗浄中は、手が汚れているため、
メガネのずれを直したり、水分を補給したりすることもままなりません)

体液の跡を少しずつぬぐい、脱げたままのスリッパを片付けていくと、
故人が亡くなった状況が少しずつ分かってきます。
ここに足を向け、ここに頭をぶつけて亡くなったのか…
途中で皮膚や、頭髪も見えてきますが、
不思議と「恐ろしい」といった感情は湧いてきません。
故人の最後の痕跡を、丁寧に洗い流すことだけに集中して作業を行います。

およそ1時間で清掃を終え、現場にご遺族を招き入れます。
今回は、清掃のみで消臭は行わなかっため、
多少の臭いは残っていますが、現場への出入りを阻んでいた腐敗臭は軽減され、
ご遺族にも満足いただけました。

この後、棚など大型家具の処分を弊社で行い、
ご遺族が荷物の整理をされるということでした。

今回は、フローリングに体液の跡が残ってしまいましたが、
ご遺族は、ご家族の最後の姿を愛おしそうに眺めている姿が印象的でした。

私にとって、初めての特殊清掃の現場、故人の最後を見届ける仕事であり、
ご遺族にとっても、大事な場面に立ち会う仕事であることを忘れず、
初心を大事にこの仕事を続けていけたらと思います。

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冬眠から覚めた蛆虫くんお帰りなさい。

春になり桜も散り去り世間ではGWウィーク前の空気感が漂っています。

日々の暖かくなった気候に昼間から眠気まで起こりますね。仕事上車は必須で

毎日特殊清掃や遺品整理の現地調査で、大阪をはじめとして、兵庫県、京都府、滋賀県、和歌山県と

色々な地域に車移動します。車の運転中は冬場は窓を閉め切って運転するのですが、

風が気持ちよい季節なので窓を全開にして運転する事が増えました。

幸い私には花粉症の症状がまだ一度も味わったことが無いのでできる事なのでしょうが。

花粉症の方ごめんなさい。

さて新型コロナウイルス感染症も3年目に突入しておりますが、得体のしれない脅威から

解明されてきた事が沢山解ってくるようになり、自分の身は自分で守る事(自己防衛)にフェーズが切り替わり

つつあります。その中で今後の室内や公共交通機関などでのマスクの義務化なども緩和されていくことでしょうね。

アメリカなどでは飛行機の搭乗もマスクは必要なくなっているようですね。ニューヨーク州だけは

まだいろいろと規制されているようです。日本でも風邪とまでは言えませんが、せめてインフルエンザ感染症の

5類感染症指定に変更して、同じように対応していくことにいずれなるように思います。

コロナウイルスに感染された方の職場の除染作業もだいぶん少なくなってきて

感染者も早く落ち着く事を願うばかりです。

ワクチン接種での重傷化を防ぐのと感染しても軽傷で済まれている方が私の周りにも沢山います。

私自身は新型コロナウイルス感染症に感染された方の除染作業をするので、ワクチンは3回接種も2月末で終わり

無事になんとか今まで一度も感染しておりませんが、こればかりはインフルエンザにも感染した事が無く、体質も

大きく関係しているのだろうなぁと思います。

暖かくなり、特殊清掃の案件が増えてきております。

先日冬眠から眼を覚ましだした【アイツ】を見ました。そのあいつは数百から数千と大量にうじゃうじゃと、

明るい所から暗い所に逃げるように、集団でうにょうにょと動いています。蛆虫くんこんにちは。

また今年も大量の君たちとの闘いが始まるのですね。駆除されるか蠅になるかの闘いです。

孤独死や孤立死、自殺(自死)などでの緊急対応等SCS特殊清掃・ケアサービスにお任せください。

お問合せスタッフ一同心よりお待ちしつぉります。

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暖かくなり孤独死などの特殊清掃が増えてきます。

桜満開の春になりました。新規一転奮起しようと心がけている人も多いのではないでしょうか?

知人と会社近所の公園でプチ花見をしました。私自身は春の花見、秋の月見等には自信興味を示すことはありませんでした。

しかし先日、会社近くの公園を徒歩で通るとなんとも綺麗な満開前のソメイヨシノが咲き誇っており、なぜか興味を示すことに。

そこで突発的ではありますが花見を数年ぶりに満喫させていただきました。

会社近所の下町の公園で昼間は穴場でした。子供たちが公園いっぱいに遊びまわっているので

隅っこのほうでの花見客はちらほら程度。

ここ10数年の傾向で、火気厳禁な公園が多くバーベキューなどをする事が出来る公園が限られている為

人も比較的少なめ。愛犬と共に近年の仕事のストレス発散には抜群の癒しでした。

心身共にリフレッシュする事が出来て良いお花見になりました。

春になり今年も4分の1が過ぎ、益々と年が過ぎる速さと共に何かわからない焦りを感じているのは私だけでしょうか。

歳をとるにつれて、一年のスピードがとてつもない速さで過ぎ去っていきます。

今一日を後悔しないように、前を向いて噛みしめて歩んでいきたいものです。

暖かくなってきて、SCS特殊清掃・ケアサービスの本業である特殊清掃が増えつつあります。

どんな現場でもSCS特殊清掃・ケアサービスの技術力をもって迅速・適切な技法を用いり対応させて頂きます。

孤独死や孤立死などの突然の死によって汚染された、現場の特殊清掃が必要になりましたら

SCS特殊清掃・ケアサービスまでお問合せくださいませ。

お問合せスタッフ一同心よりお待ちしております。

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3.11東日本大震災から11年。震災から戦争

SCS特殊清掃ケアサービスの岡本です。

ロシアがウクライナに侵攻して早くも2週間が経ちました。

毎日メディアで取り上げられる内容は刻一刻とウクライナの首都キエフの陥落が近づいているという事。

大人も子供たちも沢山の人間が亡くなっていっているという事。

誰も得する事が無い、なんの大儀もない戦争。早く終息する事を強く願います。

私たち日本人がどんな事でもいい。祈る事でもよい。寄付する事も。ひとりひとりが出来る事をしていってほしいです。

ウクライナでは戦争が起きている中、毎年冬から春に移り変わるこのときに決して忘れる事の出来ない

震災の記憶がありますね。

私が18歳、高校の卒業前には阪神大震災が起き、私は無事でしたが親戚は被災者となりました。

そして11年前に東日本大震災が起きました。

2011年3月11日に私は長距離トラックドライバーとして仕事していました。

私は当時あの現地に足を踏み入れ、この目で経験して、その後トラックを降りて今の仕事をはじめるきっかけが

東北の大震災です。

あの日、ちょうど昼過ぎに神戸の港で静岡県牧之原市行きの荷物を積んでいる時に揺れを感じたのが始まりでした。

まさかその時には大災害になるなんて思いも寄らなかったのですが、結局はその後、東北には甚大なる津波被害、そして

静岡県沿岸も津波警報が発令中で、翌日の荷卸し場である牧之原市も沿岸2キロ以内に位置するので、運搬が中止になりました。

荷物をもう一度神戸港にある物流倉庫に戻し、空車の状態で当時勤めていた会社に帰社しました。

テレビをつけると私も体験した阪神大震災とは違う、津波の映像を見る事になりました。

同じトラックが流されていく映像をみて、初めて今回の震災の怖さを覚えました。

他人といえど私も停めた事のあるあの岸壁沿いの大型トラックが流れて行ってるのです。

しかも大型トラックがいとも簡単に流され海へ飲まれているのです。中に人が居るかもしれません。

いや、いる可能性大です。あの岸壁に停めるときは、キャビンで寝ている可能性が高いです。

あれが自分だと思うと。身体全体で震えました。

次の日からもテレビによる被害状況、中には孤立している町もあるとのこと。そ

んなときに仕事依頼がはいりました。荷主が大阪知事(当時橋下さん)の仕事を私が任命されました。

なぜ私が選ばれたのかはわからないのですが、当時34歳の私は一番若いのでいってきます!!という二つ返事は当たり前。

しかし初めての東北地方へいくのが震災中で、被害状況がわからない被災地へ行くことに

正直不安を覚えていましたが、変な正義感なのか使命感を感じたのでしょう。なぜかいくしかないと私。

当時の私は月に3日ほど、大阪の家に帰ってきて夜は街で飲み散らかし。休み明けにまた長距離運行にいくという

なんとも好き勝手なおひとりさまを満喫しており、本当に心が病んでいた私は人と関わるのに

トラウマを覚えていたので、気楽に一人旅を楽しんで仕事が遊びのような感じでありました。

あと先の事なども考えるはずもなく、ただ、惰性で生きておりました。

そんな私に、妙な変な気持ちが生まれ、なぜか力になりたいと思った被災地への救援物資の運搬が始まりました。

震災の次の日12日の18時ごろに万博記念公園にある災害備蓄倉庫にて(災害用チキンラーメン)の積み込みが終わりました。

次にトラックの3軸目のみスタッドレスタイヤを装着(あきらかに何かがおかしいのですがここは割愛)

大阪から高速で名神、北陸道から新潟中央より磐越道に移る手前、三条燕インターで一旦高速を降りて給油所へ。

被災地では燃料を入れる事が出来ないかもしれないとの噂が、トラックドライバーでは広がっていたので早めの給油です。

大型トラックの燃料タンクは600ℓ、だいたい満タンで1500キロ前後だったと思う。

大阪から岩手県宮古市まで1100キロなので、余裕をもって600キロくらいの新潟三条燕で給油するのが

無難だと判断したのです。

無事に給油を済ませて高速を走り、磐越道を目指そうとすると急激な眠気が襲い、路肩に停め2時間程仮眠。

朝6時頃目が覚めて磐越道に入るところで警察の検問がありました。

そこで初めて(内閣府発行)通行許可証を手にいれました。

ビックリマンシールキラキラ以上の素晴らしいプレートです。

これがあると震災復興に関わる車両は高速道路が、全て無料通行可能になるとんでもない期間限定のシロモノだったのですが。

途中磐越道から東北道への分岐、郡山ジャンクションを超えてから入る東北道は、地震による地盤のずれで

道路上にヒビや段差が沢山出来ていて、トラックにも相当の衝撃が走りました。

道路上の段差と大雪でスピードを出すことが危険なので、60キロ走行で東北道を北上してようやく

盛岡南インターに到着した頃が、すでにお昼13時過ぎだったのを覚えています。

救援物資の配達順番は、岩手県岩泉町→普代村→宮古市と卸しに行く予定でした。

この当日実は、大寒波が東北を襲っていたのです。

大寒波の影響は地吹雪警報と共に路面は凍結し、雪も積もっている状態でした。

ご存知の方もおられると思いますが、盛岡南から岩泉町→普代村→宮古市へ行くためには

国道455号を90キロ近く山道と険しい峠を走っていかなければなりません。

そして峠の入り口には当然検問があり、一般車両通行止めの看板。

私のような【内閣府発行】通行証を持っている車のみ可能。

しかし前記していた3軸目のみスタッドレスタイヤを履き、その上からタイヤチェーンを巻いただけの装備なので、

検問で止められます。いったらだめだと。

しかし、わたしは【いくしかないねん】と警察に怒鳴って、無理やりゆっくりトラックを登らせていきました。

警察も停めもしないのでそのまま進行。数キロ行くまでには道路はとっくに真っ白。

3軸目しかスタッドレスタイヤを掃かせてもらえない、ケチ会社を恨みました。。

そんな不十分な装備ではゆっくり走行するしかなく、途中自衛隊のトラックにも抜かせてあげるくらい、危険な走行だったのです。

岩泉町役場に到着する頃にはもう夕方になっていました。

そこで荷物を卸して次は普代村に着いた時には、もう日が落ち真っ暗になっていました。

荷卸し後にはフロントガラスが凍り付き、お湯も無く溶かすことが出来ずに爪で掻き削って視界を確保。

前途の村では直接的な人的被害は最小であったのですが、避難している人はたくさんいました。

でも身内の安否がわからなくて不安な気持ちで皆さま過ごされていたのだと思います。

凄くチキンラーメンを届けた事に感謝してくれて、私は【一緒にがんばりましょう】としか言葉をかけることができませんでした。

そして次の宮古市に近づき街が見えた瞬間、体中が震え上がりました。

テレビ、それ以上の360度の光景が広がっていました。

普代村を出る時に国道45号までどうやっていけばいいですか?と訪ねてみると【道は無くなった】と聞いていましたが、

本当だとすぐに実感した。本当に道がない。

国道道路真ん中にひしめき合う家、家、家、まだ水も引き切っておりません。

救助もまだできていない事がわかる家だらけ。

慌ててトラックから飛び降りると、地面が凍り付いていてコケる。

しかしコケた痛さや寒さよりもありえない光景に震え上がる。

勝手に出る涙が止まらない。馬鹿だから写メールを取ろうと試みたが、手振れ防止以上の震え上がりで撮れない。

中型船がビルの上に乗っかってる光景。テレビで見た。でも実物でみたらテレビとは比べ物にならない。

なんてことだ。これが津波。

これが現実。本当に震えがとまりませんでした。睡眠時間すごく少ししか取っていないけど眠気なんて起きる気がしません。

その場にいても何もする事が出来ない自分にわかってはいるけど、しばらく立ち尽くしていたのを覚えています。

しかしすでに時間は日にちが変わるくらいまでになっていたので、救援物資を運ぶ体育館を探しようやく着いた。

宮古市のとある体育館には、沢山の人が待ち望んでいたかのように受け取ってくれる。

荷卸も被災者の皆様が手伝ってくれました。

まだ自分の家族たちが見つかっていない人もたくさんいました。

若い子も年配者もその時から、お互いを励ましあっている。

携帯電話が全く使えず衛星電話の列に並んでいると、まわりは皆地元の人たち。

泣きながら叫んでいる人、泣きながら安否確認が取れて喜んでいる人。

会社へ配達完了報告の為に連絡をとるのも申し訳なく、途中で列を離れました。

電波の届くどこかを探すために盛岡まで戻ろうとトラックのエンジンをかけると、

自衛隊の方から帰れないぞ。明日の朝までまったほうがいいと言われました。

理由は雪が圧雪しており(薄く硬い氷が張っている状態)地元の慣れたドライバーも、スタッドレスタイヤの

上からチェーンを巻いていたが切れたとの事。

タイヤチェーンはあくまでも雪の上で使うものであり、圧雪下のアスファルトに触れるのでどうしても切れやすいのです。

それで明日の朝まで、体育館で就寝してしまうと、被災者の方の寝床が一つ減らすことになりかねません。

そうするわけにはいかないと思い、行けるとこまでいこうときめて出発したのです。

しかし、いわんこっちゃない途中でチェーン切れました。もう走行不可能。

宮古市から50キロくらい進んだところで、雪と坂の傾斜が急なのでこれ以上は危険だと思い、道の駅をで夜を過ごしました。

マイナス15度以上の表示看板を見ながら、仮眠をとりました。

翌朝には天気も晴れと雪がやんでいました。道路上の雪も少しましになっていたので出発。

数時間後にようやく盛岡まで出てくることができました。携帯電話の電波も入り会社に完了報告をいれると、

会社の配車係がなんや生きとったのか?行方不明になったと盛り上がっていたとの事。

私を労うわけではなく、休む間も無く帰りの荷物をその日中に群馬県伊勢崎市へ向かう事に。

そして2日後に関西へ一旦帰阪しました。

この日が初めて被災地へ救援物資を持っていった日になりました。

それから何度も岩手、宮城、福島へ救援物資を持っていくことがになります。

現地で出会った深い悲しみの被災者の方、納棺師やエンバーマー、歯科技工士、自衛隊や

災害ボランティアの方の使命感に心打たれました。

それから数か月で私はトラックを降りて、今の志事、特殊清掃という仕事に出逢いました。

私にとっての震災は人の命がたくさん奪われた悲しさと、私の生き方を変えてくれるきっかけになってしまったわけです。

災害復旧支援には私が出来る事をこれからもしていきたいと思います。

今日の日を風化させることなく、命を大事に。

また災害時には危機管理が第一、それぞれが声を掛け合う事で沢山の人の命が助かる事が多いです。

哀しいことに、今の日本は都会であればあるほど、近所付き合いが無い。

隣のひとの名前はおろか、顔もわからない、住んでいたの?であるとか、

そうではなく周りが昔の団地の隣近所のように助けあう事が必要であると思います。

私たちが産まれてから起きた大きな自然災害、阪神大震災及び東日本大震災で沢山の命が奪われました。

それを教訓に人間は成長していかねばなりません。一番大切な事は相手を思いやる気持ち。

持ち続けていきたいです。

戦争も絶対ダメです!早く戦争が終わりますように。

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